車に乗せてもらうのが当たり前だと思っている家族に感じる違和感
我が家では、
昔から父が車好きだったこともあり、
週末になると家族で出かけるのが恒例でした。
ショッピングセンターに行ったり、外食を楽しんだり。
車があることが「家族の当たり前の風景」だったのです。
しかし、その環境が長く続いた結果、
母と姉の中では「誰かが車を出してくれるのが当然」
という感覚がすっかり染みついてしまったように思います。

なぜ俺が運転しなくてはならないのか?
父が免許を返納した今、
その「当然」は私に向かってきました。
「車を出せばいいのに」
「どこかに行けるのに」
「イザとなったら病院に送れるのに」
といった言葉を、繰り返し聞かされます。
まるで、免許を持っている人は
”家族の運転手”になるのが当然かのようです。
しかし、私は運転が好きではありません。
東京に住んでいる今は、
むしろ車のない生活の方が合理的です。
電車やバスが充実しており、
目的地まで時間通りに快適に移動できます。
車を持たなくても何一つ困らない環境です。

それどころか、
車を所有すればガソリン代、
駐車場代、車検、保険料といった維持費がかかります。
年間に換算すれば数十万円。
趣味として車を楽しむならまだしも、
必要もないのに維持するのは現実的ではありません。
それでも母や姉は、
そうしたコストの感覚を持ち合わせていません。
長年、父が家計を支え、専業主婦とニートで過ごしてきたため、
「生活にかかるお金」や「働いて得たお金の重み」
を実感する機会が少なかったのだと思います。
そのため、車を出してもらうことや、
どこかに連れていってもらうことが
”当然のサービス”のように思えてしまうのでしょう。
私はこの構図に、単なる
「家族の甘え」を超えた社会的な問題を感じています。
それは、“依存体質”の問題です。
誰かがやってくれる、何とかしてくれる、
という考え方が長く続くと、人は自分で行動しなくなります。
結果として、周囲に負担をかけていることにも気づかない。
家族という小さな共同体の中にも、そうした構造が存在しているのです。
「運転すれば色々行けるのに」
は?!
「運転すればいいのに」と軽く言う側は悪気がありません。
しかし、それを受ける側にとっては
「時間」「労力」「責任」を伴う行為です。
どんなに近い関係でも、
他人の労力を当然と思う姿勢は、
相手にとってストレスになります。
これは家庭に限らず、
会社や地域社会にも共通する問題だと思います。
何度か断っても、私が怒ると
「そんなことで怒るなんて」と”必ず”逆に責められます。
しかし、それは怒りではなく「境界線を守るための防衛反応」です。
家族であっても、誰かの努力や時間に
「当然」という言葉を使うのは間違っています。
人にはそれぞれの事情や価値観があり、
他人の行動を自分の都合で決めつけることはできません。
私は、車を持たない生活を「不便」とは感じません。
むしろ、無理なく身の丈に合った暮らし方を選ぶことが、
現代の都市生活では自然だと思います。
それを「理解できない」と言うのは、
その人が変化に対応できていないだけなのかもしれません。
脳が退化する母と姉
年を重ねると、考え方が固まりやすくなります。
昔の「常識」や「当たり前」が、
今の時代には通用しなくなっていることも多いのに、
その変化を受け入れられず、過去の感覚のまま生きてしまう。
結果として、周囲との価値観のズレが生まれ、摩擦が起こります。
母や姉を責めたいわけではありません。
ただ、”誰かの支えの上に自分の快適さが
成り立っている”という意識を、少しでも持ってほしいのです。
それができれば、家族の関係はもっと健全なものになるはずです。
車を出すかどうかは、善意であって義務ではありません。
家族だからこそ、その線を尊重し合える関係でありたいと願っています。


コメント
いつも私の車をあてにしているような気がして腹立ちます
車持っているから”簡単に引っ越しできるでしょ?”
という感覚が気持ち悪すぎます
車の維持費も何にも知らない奴ほどこうだよな
本当にッムカつく
自分が乗るため
楽しむために買ったんだよな
送り迎えを当然だと思ってる母親
これは一種の病気
わがままな奴に正論突き付けても
理解できないバカなんだよな
話し合いにもならないアホな頑固さを持っている
本当にキモイ