昔は誰のものだったのか?
なぜ残っているのか?なぜ星の形をしているのか?
小学生にもわかりやすく教えてください。

函館の五稜郭は何故有名なの?誰のもの?星形の理由を小学生にもわかりやすく解説
北海道函館市にある五稜郭は、上から見るときれいな星の形をしている有名な観光地です。
桜の名所としても知られ、五稜郭タワーから見下ろすと「本当に星みたいだ!」と驚く場所ですが、もともとは観光のために作られたものではありません。
五稜郭は、昔の日本が外国から国を守るために作った要塞です。
要塞とは、敵が攻めてきた時に守るための強い城や基地のような場所です。
しかし面白いのは、五稜郭が実際に戦いで使われたのは、外国との戦争ではなく、日本人同士の戦争だったという点です。
ここが五稜郭の歴史を少し難しくしている部分です。
五稜郭はなぜ有名なのか?
五稜郭が有名な理由は、大きく分けて3つあります。
1つ目は、日本では珍しい星形の城であることです。
日本のお城といえば、姫路城や大阪城のような天守閣を思い浮かべる人が多いですが、五稜郭は少し違います。
高い天守閣がドンと建っている城ではなく、堀と土塁で囲まれた西洋式の要塞です。
2つ目は、戊辰戦争の最後の舞台になったことです。
戊辰戦争とは、江戸幕府の時代が終わり、明治政府の時代へ変わる時に起きた日本国内の大きな戦争です。
五稜郭は、その戦いの最後の方で旧幕府軍が立てこもった場所として有名になりました。
3つ目は、今では函館を代表する観光地になっていることです。
春には桜が咲き、五稜郭タワーからは星形の全体を眺めることができます。
つまり五稜郭は、形が珍しいだけでなく、日本の歴史が大きく変わった場所としても有名なのです。
五稜郭は誰が作ったの?昔は誰のもの?
五稜郭を作ったのは、江戸幕府です。
江戸幕府とは、徳川家が中心となって日本を治めていた昔の政府です。
当時の日本は、外国の船が近づいてくるようになり、「このままでは日本が攻められるかもしれない」と心配していました。
特に函館は、外国との交流が始まった重要な港町でした。
そこで江戸幕府は、北海道や北の守りを強くするために、函館に五稜郭を作ったのです。
五稜郭は1866年に完成しました。
つまり、昔の五稜郭は江戸幕府が作った、国を守るための施設でした。
ただし、今でいう個人の持ち物というより、幕府の役所であり、防衛のための重要な場所だったと考えるとわかりやすいです。
現在の五稜郭は、歴史的に大切な場所として守られています。
昔は戦いのための場所でしたが、今は歴史を学び、景色を楽しむための場所になっています。
なぜ星の形をしているの?
五稜郭の一番わかりやすい特徴は、星の形をしていることです。
これは見た目をかっこよくするためではありません。
敵から守りやすくするための形です。
普通の四角い城だと、角の近くに見えにくい場所ができやすくなります。
敵がそこに近づくと、守る側から見えにくくなってしまうのです。
しかし星形にすると、出っぱった部分から横の方向まで見張ることができます。
つまり、敵がどこから近づいてきても見つけやすく、攻撃にも対応しやすい形だったのです。
小学生向けに言えば、星の角が見張り台のような役目をしていたと考えるとわかりやすいです。
五稜郭の星形は、ただのデザインではなく、戦うために考えられた合理的な形だったのです。
外国から守るために作ったのに、なぜ国内戦で使われたの?
ここが五稜郭の歴史で一番面白いところです。
五稜郭は、もともと外国から日本を守るために作られました。
ところが完成してからまもなく、日本の中で大きな争いが起きます。
それが戊辰戦争です。
江戸幕府の時代を続けたい人たちと、新しい明治政府を作りたい人たちが戦いました。
最初は京都の近くで戦いが始まり、その後、江戸、東北、北海道へと戦いが広がっていきます。
そして最後の舞台の一つになったのが、函館の五稜郭でした。
旧幕府軍は五稜郭に立てこもり、新政府軍と戦いました。
しかし最終的には新政府軍が勝ち、五稜郭での戦いも終わります。
つまり五稜郭は、外国から守るために作られたのに、実際には日本の時代が変わる国内戦で使われた要塞だったのです。
戊辰戦争を小学生にもわかりやすく言うと?
戊辰戦争を簡単に言うと、日本のリーダーを交代するための大きな戦いです。
それまで日本を動かしていたのは江戸幕府でした。
しかし時代が変わり、外国とも付き合っていかなければならなくなりました。
そこで「古い幕府のままではなく、新しい政府を作ろう」と考える人たちが出てきました。
一方で、江戸幕府側にも「まだ幕府を守りたい」と考える人たちがいました。
その考え方の違いが大きな戦争になったのです。
新しい時代を作ろうとする明治政府側と、幕府を支えようとする旧幕府側。
この戦いの最後の方で、旧幕府側が五稜郭に集まって戦ったため、五稜郭は歴史的にとても有名になりました。
五稜郭はなぜ今も残っているの?
五稜郭が今も残っているのは、歴史的にとても大切な場所だからです。
戦争が終わったあと、五稜郭は要塞としての役目を終えました。
もう敵と戦うための場所ではなくなったのです。
しかし、五稜郭はただの古い土地ではありません。
江戸幕府の終わりと明治時代の始まりを伝える、重要な歴史の証拠です。
もし五稜郭が壊されて普通の土地になっていたら、今の私たちは当時の歴史を実際の場所として感じることができません。
だから五稜郭は保存され、今も多くの人が訪れる場所になっています。
歴史を本で読むだけでなく、実際にその場所に立って感じられるのが五稜郭の魅力です。
今の五稜郭はどんな場所?
今の五稜郭は、戦いの場所ではなく、観光と歴史学習の場所です。
五稜郭タワーに上ると、星形の全体を上から見ることができます。
地上を歩いているだけでは、意外と星形だと気づきにくいです。
しかし上から見ると、堀と土塁がきれいな星の形になっているのがよくわかります。
春になると、五稜郭公園には桜が咲きます。
星形の堀の周りに桜が広がるため、函館の中でも人気の花見スポットになっています。
歴史に興味がある人も、景色を楽しみたい人も、函館旅行では一度見ておきたい場所です。
明治政府が勝ったことは良かったの?
これは簡単に「良かった」「悪かった」と決めるのが難しい話です。
明治政府が勝ったことで、日本は大きく変わりました。
学校制度が整い、鉄道が走り、外国の技術も入ってきました。
今の日本につながる仕組みが作られていったのです。
その意味では、日本が近代国家へ進む大きなきっかけになりました。
しかし、その裏では戦争で多くの人が亡くなりました。
負けた側の人たちにも、それぞれ守りたいものがありました。
歴史は、勝った側だけを見れば明るく見えますが、負けた側から見ればつらい出来事でもあります。
だから五稜郭を見る時は、「新しい時代が始まった場所」として見るだけでなく、「時代の変わり目に多くの人が苦しんだ場所」としても見ると、より深く理解できます。
五稜郭を小学生に一言で説明するなら
五稜郭は、江戸幕府が外国から日本を守るために作った星形の要塞です。
でも実際には、日本の新しい時代を作るための国内戦で使われました。
その後、戦いの場所ではなくなり、今は函館の歴史を伝える大切な観光地になっています。
星の形をしているのは、敵を見つけやすく、守りやすくするためです。
五稜郭が有名なのは、形が珍しいからだけではありません。
江戸時代の終わりと明治時代の始まりを伝える、日本の歴史の大きな節目の場所だから有名なのです。
まとめ
函館の五稜郭は、もともと江戸幕府が外国から日本を守るために作った要塞でした。
星形になっているのは、敵がどこから来ても見張りやすく、守りやすくするためです。
しかし実際に大きく使われたのは、外国との戦争ではなく、江戸幕府側と明治政府側が戦った戊辰戦争でした。
五稜郭はその最後の舞台の一つとなり、日本の時代が大きく変わる歴史を今に伝えています。
現在は、五稜郭タワーや桜の名所として多くの人が訪れる観光地です。
ただの星形の公園ではなく、日本が江戸時代から明治時代へ変わる時に大きな役目を持った、非常に重要な歴史の場所なのです。



コメント
リンリンマンいないとつまらん
五稜郭観光に行きます
勉強してからいくと
楽しみも増えますよね
一か所だけ形違うのがまたイイんよ
旧政府と新政府の主な違いは何ですか?
旧政府(江戸幕府)と新政府(明治政府)の主な違いは、
政治体制や社会制度にあります。
旧政府(江戸幕府)
1. **政治体制**
幕藩体制(将軍が全国を統治し、大名が各藩を治める分権的な体制)
2. **経済**
農業中心の経済で、商業や工業は限定的
3. **社会制度**
身分制度が厳格で、士農工商の身分が固定されていた
4. **外交**
鎖国政策を採り、外国との交流を制限していた
新政府(明治政府)
1. **政治体制**
中央集権的な国家体制(天皇を中心とした近代国家)
2. **経済**
工業化と近代化を推進し、西洋の技術や制度を積極的に導入
3. **社会制度**
身分制度を廃止し、平等な社会を目指す
4. **外交**
開国政策を採り、積極的に外国との交流を進めた
これらの違いにより、日本は急速に近代化し、
国際社会での地位を高めることができました。
どちらの体制にも利点と課題がありましたが、
明治政府の改革は日本の発展に大きく寄与しました。
弁天岬台場という海沿いにも小さい五稜郭があったの聞いて納得した
海沿いにも必要だし